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デスヴァレー国立公園(デスヴァレーこくりつこうえん、Death
Valley National
Park)は、アメリカのシエラネヴァダ山脈東部に位置する国立公園である。
概要
デスヴァレー国立公園は、その大部分をカリフォルニア州インヨー郡、一部をネバダ州が占めている。デスヴァレー国立公園の総面積は13,158平方キロメートル(長野県とほぼ同じ)であり全米の国立公園中、最大である。
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デスヴァレー国立公園には、デスヴァレーのほぼ全域とパナミント渓谷の大部分、セイライン渓谷および近隣にあるいくつかの山脈が含まれている。デスヴァレー国立公園のうち、ネバダ州部分には「悪魔の巣穴」と呼ばれる小さな池が位置しており、その近くにはアッシュ・メドウズ国立野生生物保護区が位置している。デスヴァレー国立公園はアメリカの国立公園の中で最も暑く、最も乾燥した地域であり、さらに西半球で最も海抜の低い地点を含んでいる(バッドウォーター、海抜下86メートル)。またデスヴァレー国立公園内には過酷な砂漠環境に適応した多くの種の動植物(哺乳類:51、爬虫類:36、魚類:5、鳥類346、植物1042、等)が生息しており、クレオソート・ブッシュ、ビッグホーン、コヨーテ、デスヴァレー・パプフィッシュなどを観察することができる。 |
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現在のデスヴァレー国立公園地域がアメリカ合衆国によって国立公園として指定される以前、この地域における主要な産業は採鉱であった。デスヴァレー
(Death Valley; 死の谷)
という地名は、ゴールドラッシュさなかの1849年、カリフォルニア州にある金鉱地へ向かっていたグループが近道をしようとしてこの谷に迷い込み、数週間さまよった末にメンバーの数人が酷暑と水不足によって命を落としたことに由来している(ただしデスヴァレーで命を落としたのはそのグループのメンバーだけであり、それ以外に死者が出た記録はない)。19世紀末から20世紀初頭にかけてのデスヴァレーでは、局所的なゴールドラッシュの発生が幾度となく発生し、いくつもの街が生まれては消えた。その一方、ホウ砂の採掘は唯一長期間安定した利益をもたらし、この地域で採鉱されたホウ砂は石鹸や工業加工品を製造するために使われた。「トウェンティ・ミュール・チーム」は、採掘されたホウ砂をデスヴァレーから搬出した輸送隊として有名であり、数々の書籍、映画、テレビ番組、ラジオ番組の題材として取り上げられた。1933年に現在のデスバレー国立公園地域の一部がアメリカ合衆国によってデスヴァレー国定公園として保護地域に指定された。その後1994年に国定公園から国立公園へと格上げされるとともに保護地域も拡大され、現在のデスヴァレー国立公園地域全体が保護対象となった。
この地域の自然環境は長い時間をかけて形成されたものであり、複雑な地質をしている。最も古い岩石は少なくとも17億年前に形成されたものであり、大きく変成している。この地域はかつて温暖な浅瀬であり、泥や砂が長い年月をかけて堆積した。この堆積は沈み込み帯が海岸沖に形成されるまで続いた。その後この地域は海底から隆起し、直線状の火山群が形成された。さらにその後、地殻の東西方向への伸張運動が開始され、現在のようなベイズン・アンド・レンジの地形が形成された。谷には堆積物が堆積し、湿潤な氷期にはデスヴァレーを満たすマンリー湖のような巨大な湖がいくつも出現した。
地理
国立公園内にはデスヴァレーとパナミント渓谷という2つの主な谷がある。いずれも数百万年以内に形成され、南北に走る山脈によって分かたれている。周囲の谷ともどもベイズン・アンド・レンジと呼ばれる地形の典型であるものの、少し異なるところもある。並走する走向移動断層がデスヴァレー中央部を縦断していることだ。剪断(せんだん)作用が働くため、デスヴァレーの中央部が拡大し、より沈下した。
周囲の山脈の隆起と谷底の沈下は同時に進行している。谷をはさんでパナミント山脈と向かい合うブラックマウンテンの隆起が速いため、パナミント山脈側と比べると扇状地(渓谷の入り口の部分に扇の形で広がる堆積物)は比較的小さく、勾配がきつい。この結果、「ワイングラス渓谷」と呼ばれる多数の谷がブラックマウンテン沿いに並んでいる。隆起のために、デスヴァレーの川底に至るいわゆるV字谷を刻む余裕がない。途中まではV字谷なのだが、川底まで半分の位置に達すると、そこから先は長い隙間のようなスロットキャニオンに形を変え、堆積物がたまった比較的小規模で急な扇状地を形成した。
先住民族
現在のデスヴァレー国立公園地域には、紀元前8000年頃からアメリカ先住民が居住していたことが知られており、時代ごとに大きく4つの民族に分けられる。この地域に最初に人類が定住したのは紀元前7000年頃と推測されており、狩猟採集民族であるネヴァレス・スプリング族が居住していた。当時この地域にはマンリー湖やパナミント湖などの巨大な湖が存在しており、デスヴァレーやパナミント渓谷は湖面の下に水没していた。当時の気候は比較的温暖であり、狩猟の対象となる動物が数多く生息していた。紀元前3000年頃になると、ネヴァレス・スプリング族に代わってメスキート・フラット族がこの地域に定住を始めた。メスキート・フラット族の文化は、ネヴァレス・スプリング族の文化とよく似ていることが知られている。西暦元年頃になると、高温で乾燥した砂漠へと変化したこの地域に、サラトガ・スプリング族が移住してきた。サラトガ・スプリング族は集団での狩猟技術に優れた民族であり、手工芸に長けていた。デスヴァレーの谷底には、サラトガ・スプリング族によって作られたと推測される、奇妙な形に配された石が残されている。
1000年頃になると、遊牧民族のティンビシャがこの地域に移住してきた。ティンビシャは、以前は「ショショーニ族」と呼ばれており、「パナミント」や「コソ」という呼び名でも知られている。この地域に移住してきたティンビシャは、狩猟や、豆の一種であるメスキート、松の一種であるピニヨン・パインの実を採集して定住を始めた。この地域では谷底と尾根の気温に大きな差があるため、特に西部の地域において、ティンビシャは季節ごとに高地と低地の移動を繰り返した。冬場は谷底の水源近くに居を構え、気候が温暖になる春から夏にかけて、植物の成長とともに高地へと移動した。そして11月頃になると、尾根の付近で松の実を採集し、谷底へと戻るという生活を営んでいた。かつてはスコッティズ・キャッスルの近くにマアフヌという村落が存在しており、そこに住むティンビシャは、多数の籠を作っていた(現在でもスコッティズ・キャッスルでは、マアフヌのティンビシャが作った籠を見ることができる)。ティンビシャの家系の一部は、現在もデスヴァレー国立公園内にあるファーニス・クリークの村落に居住している(ティンビシャという名前は、この地域の元々の名前である)。
最初の来訪者
現在のデスヴァレー国立公園地域に白色人種が最初に足を踏み入れたのは、カリフォルニア州で発生したゴールドラッシュがきっかけであった。1849年12月、およそ100台の荷馬車とともにカリフォルニア州ゴールド郡へと向かっていた2組の白色人種のグループが、オールド・スパニッシュ・トレイルへ近道をしようとして道に迷い、巨大な谷に入り込んでしまった。後にベネット・アーケイン移民団と呼ばれた彼らは数週間もの間、この谷から脱出する道を見つけることができず、生き残るために数頭の牛を食べることを余儀なくされたが、この谷に数多く存在する泉から飲用水を確保することはできた。
彼らは荷馬車を捨て、起伏の激しいウィンゲート・パスを通ることでようやく、この巨大な谷を脱出することができた。言い伝えによると、この谷から脱出した直後、一団の中の一人が「グッバイ・デスヴァレー(Goodbye
Death Valley;
死の谷よ、さようなら)」と言ったとされており、これがデスヴァレーという名前の由来とされている(実際にこの一団の中にいたカルバーウェルという名の初老の男性一名がデスヴァレーで命を落としているが、この男性はデスヴァレーに迷い込む前から極度の疲労状態であった)。その後、この一団のメンバーであったウィリアム・ルイス・マンリーが自叙伝『Death
Valley in
'49』でこの旅の詳細を述べたことにより、この地域に関する情報は大衆へ広まった(地質学者たちはその後、有史以前にデスヴァレーを満たしていた湖に対して、マンリー湖という名を付けた)。
ゴールドラッシュ
現在のデスヴァレー国立公園地域で採れる最も有名な鉱石は、食塩やホウ酸塩、滑石などが堆積した蒸発残留岩に含まれるホウ砂である。ホウ砂は、この地域において最も回収しやすい鉱石であり、かつ、最も利益率の高い鉱石でもある。この地域で初めてホウ砂が発見されたのは1881年であり、ファーニス・クリークの近くのロージーおよびアーロン・ウィンターズで発見された。そして同年の末にはイーグル・ボラックス・ワークスがデスヴァレーで初めてホウ砂の商業活動を開始した。1883年の末にはハーモニー・ボラックス・ワークスのウィリアム・テル・コールマンがこの地域に工場を建設し、1888年まで石鹸の製造や、工業用に使用されるホウ砂の生産を行った。この地域で作られた製品は、18頭のラバと2頭の馬によって構成されるトウェンティ・ミュール・チームに引き渡され、およそ265キロメートル離れたモハーベにある鉄道まで輸送された。トウェンティ・ミュール・チームは1時間あたり約3キロメートルの速度で移動し、工場と鉄道とをおよそ30日かけて往復した。トウェンティ・ミュール・チームの写真は、ボラックソ社の粒状石鹸の宣伝広告に使用されたり、デスヴァレー・デイズ社のラジオ番組やテレビ番組で取り上げられたりした。この地域の採鉱産業は、コールマンによる専制経営が終焉する1920年代まで、世界第1位のホウ砂の供給源として繁栄した。デスヴァレーで採掘されるホウ酸塩鉱物は主に、600万年前から400万年前のファーニス・クリーク構造体に堆積したものである(ザブリスキー・ポイントも参照して欲しい)。
現在のデスヴァレー国立公園地域には、銅・金・鉛・銀などの希少な埋蔵鉱物を求めて、多くの人々が訪れた。この地域では幾度となく希少鉱物の採鉱事業が行われたが、アクセスの悪さと苛酷な砂漠環境により、事業が長く続くことはなかった。1903年12月、銀を発見するため、オーストラリアのバララットから2人の男性がこの地域を訪れた。1人はジャック・キーンというアイルランド出身の鉱山労働者、もう1人はドミンゴ・エッチャーレンというバスク国出身の片目の肉屋であった。キーンは、エッチャーレンとともに銀を探していたフューネラル山地の作業現場の近くで、全くの偶然に巨大な金の鉱床を発見した。キーンはこの鉱床を「キーン大鉱床」と命名し、これをきっかけにこの地域では小規模なゴールドラッシュが発生した。キーン大鉱床は、ライオライトやスキードゥー、ハリスバーグで発見された貴金属鉱脈と同様に、大きな利益をもたらした(その一方で、偽装発見も相次いだ)。しかしながら、数多く発生した散発的なゴールドラッシュが一段落した後に、一連の鉱脈の分布を調査した結果、十分な利益をもたらすだけの貴金属鉱脈は存在しないことが明らかとなった(鉱脈は現在のデスヴァレー国立公園地域の広い範囲に点在しており、立ち入ることが危険である場所が多かった)。このブームによって出現した鉱山近郊の町は、20世紀初頭の10年間で急激に発展したが、1907年恐慌を契機に衰退した。
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